英語学習に国語力が関係あるか

以前、Think difficult ! part1「学力とは何か」という記事において、「学力」の本質が何か書いたことがあった。記事中では、学力の本質は抽象化の力だという説明をした。数学や物理、化学といった日常的ではない内容を扱う理系科目についてはなんとなくそうなのかなと感じることができても、英語、国語、社会といったいわゆる文系科目については、そんなたいそうなもの要らないと感じる人がいるかもしれない。ということをふと思ったので、同じような内容になるが、視点を変えて話をしてみる。

文系科目(特にここでは語学に限る)の勉強ができないと、「国語力」が足りないと言われる人は多いと思う。それは、正解でもあり不正解でもある。国語力というのは、抽象化の力の中でも特に、自然言語(あるいは母国語と言い切っていいのかもしれない)による運用を指す。単純に、母国語で書かれた文章の読解力や表現力が国語力そのものなので、国語力が足りないと勉強ができないという意見は正解である。しかし、国語力と受験勉強における学力が100%一致するわけではないので、そういう意味では不正解でもある。

国語力を作る源は言語表現のインプットである。表現の蓄積があるからこそ、自分で文章が書けるし、他人の文章が読める。思考することもできる。母国語でない言語を習得するのが得意という人が、確かに世の中には存在するが、それは国語力によるものではなく、また別な能力である。国語力というのは既に身についているはずの母国語の運用力のことだ。だから、英語の文法のシステムが頭に入るかどうかというのは日本語力とは(相関性はあるかもしれないが)直接の関係はない。日本語力が関係するのは、日本語が直接かかわってくるもの、いわゆる翻訳の部分だ。

英訳するにしても、和訳するにしても、まず日本語でしっかりと意味を理解することは必要である。たまに、英語を学ぶのに国語力なんて必要ないという人がいるが、そういう人は、もともと国語力があった人か、バイリンガルなどの英語ネイティブであろう。ものごころついて後に外国語を学ぶには、国語力は必須である。特に大学受験においては、抽象度や専門性の高い文章が扱われることが多いので、言語として形式上の意味を認識する以上に、本質的な意味を理解する必要がある。その部分は母国語で行うことになるが、そもそも表現の種類のインプットが足りなければ、そういう文章の意味を理解することができない。インプットする情報が理解できなければ、それを表現などできるはずがないし、引き出しが少ないことによってアウトプットする表現も制約を受ける。

受験においても、大学受験レベルで求められる最低限の国語力の基準は満たしていなければ、英語を学ぶというスタートラインに立てない。だから、僕はずっと言い続けているが、全ての勉強の基本は読書なのだ。いまの時代、文字以外にも様々な情報伝達のツールはあるが、全ての知的活動の基本となる母国語の運用力を高めるため、文字で情報をインプットする経験は、絶対に一定量以上必要だ。そして、その蓄積量は多ければ多いほど良い。いままさに受験生という人はなかなか難しいが、まだ受験まで時間があるなら、絶対に本を読もう。受験までかなり時間があるなら、特に古典的名作(翻訳でない母国語で書かれたもの)に触れて欲しい。時間がないなら、簡単に知識も得られて一石二鳥となる新書などでも構わない。本を読むのが嫌いだと言うなら、読みやすいエッセイでも構わない。とにかく、本を読め。

ただ、受験の話をすると、英語の配点は翻訳だけではない。文法のシステムを学ぶこと、それは国語力とは関係なく身に付けることができる。また、英語特有の文章の読み方なども国語力とは関係のないルールとして学ぶことができる。もっと言うと、所詮ペーパーテストなので傾向分析と対策を行えば、本質と関係のない小手先の技術で点数を上げることもできる。塾や予備校が一番重視するのはこの部分だ。そこは短期的対策が可能だから、塾に来てから頑張ってくれれば十分間に合う。

でも、本音を言うとそれすらも多少は国語力に左右される。それは事実だけど……。