Think difficult ! part2「難しいことはきちんと難しく」

どんなに難しいことであろうと、小学生でもわかるやさしい言葉で説明できること。

それは、とても大切で、とても難しいことである。

ただ、問題は、本当にその言葉の持つ意味、歴史、肌触りのようなものまで含めて正しく表現できているか、である。難しい概念をわかりやすく説明するということに僕は常々疑問を抱いている。将来、知性で飯を食っていくことを目指す受験生であるなら、それくらいの疑問も持てて欲しいと思う。

前回の「学力とは何か」でも書いたが、高度に抽象化された概念をわかりやすく表現すると、具体的な局面に束縛され、表現の幅が失われる。抽象化されているからこそ認識できることもある。具体的な説明で理解するというのは、あくまで理解の真似事である。

「サルでもわかる○○」みたいなタイトルの書籍がたくさん出ている。しかし、だいたいにおいて、やっぱり「サル」ではわからないし、「ヒト」が読むと逆に物足りないという、残念な仕上がりになっていることが多い。「サルが書いた○○」なら納得の出来映えと思える書籍は多い。

他にも、いまさら時間をかけて古典的名作の全てに触れるわけにもいかないので、あらすじと解説を寄せ集めてまとめて読もうという「忙しい人のための○○」みたいなダイジェストものもたくさんある。これはこれでそれなりの価値は認められると思うが、敢えて問題点を強調するなら、オリジナルに触れる「体験」を奪う野蛮行為であると言える。

そもそも、ことの本質は見た目を変えても変わらない。難しいものはどこまでいっても難しいし、苦労して時間をかけるべきものには時間をかけなければならない。それは大原則であろう。それは絶対に正しい。「たった一年で東大に合格できる本」という本があったとする。それは、勉強に対するある程度の素養やいろいろな条件を考慮した上での(条件を満たした)一年を指しているに決まっている。だから、生まれてこのかた全く勉強をしたこともない人がその本を読んで勉強を頑張ったとしても、絶対に一年で東大に合格することなどできない。最低限やるべき学習の絶対量を中学生レベルから見積もれば、一年では絶対に足りない。それはもう絶望的に足りない。言い回しを工夫して印象の操作をしても、本質や事実は絶対に変わらない。体験について例を挙げると、例えば、3時間の映画を観るのとその30分のダイジェストを観るのは全く異なった体験である。もしとてつもなく退屈な映画だったとすると、3時間映画鑑賞を続けて退屈な時間を過ごすというのはかなりの苦痛だ。それと「その映画は退屈だ」という内容を面白おかしく解説するちょっとしたダイジェストを観るのとは、全く違う体験である。それはわかってもらえると思う。あるいは、コンサートを実際に会場まで鑑賞しに行くのと映像機器で鑑賞するのも全く異なった体験である。歴史あるコンサートホールの迫力ある造形、人々が集まり同じ目的を共有しているその空気感、生音の豊かさ、実際の音量の大きさ、そういったものは、少なくともいまの映像機器では再現できない(いずれそれすらも再現できる技術が開発されればこの意見は撤回する)。その上で、「それはまあ別物なんだけどね」ということがわかっている上で、「忙しいサルでもわかるサルが書いた○○」を敢えて利用するのであれば、それもまた正しいことであると思う。本来的な「体験」は失われているが、「情報」を取得したいだけだというモチベーションで触れるのなら、全然構わないと思う。でも、体験を欠いた情報は、所詮情報で終わることが多い。入り口はそこでも、ちゃんと後付けでも良いから「体験」をすべきだとは思う。

もう少し受験寄りの話をすると、例えば、生物を学ぶ生徒にとって、中途半端に高校範囲で知識制限されることでかえってわかりにくくなっていることがかなりある。特に生化学的な分野については、なんとなくどこまで覚えたらいいのかわからない感じでもやもやしたまま教えられているのが現状だ。教えるなら徹底して全部教えれば良いのにと思う。全体像を完璧に把握することが納得という「体験」を生む。納得の伴わない知識(体験を欠いた情報)は、脳内でも端っこに追いやられる。これから学問の道に入ろうとする生徒に知識の出し惜しみをする理由がわからない。とは言うものの、教育課程に入っていないものは、こちらとしても強制的に教えるわけにもいかず、いろいろ気を遣いながらそれでもメリットが上回るものは課程外であっても教えようかということもあったりする。受験生はサルではない。サルにわからせるという目標設定は必要ない。「サルでも受かる簡単医学部」などと嘘をつくより「ヒトならちゃんとわかる受験勉強の全て」という形できっちり全てを教えた方が近道なのに、と常々思う。

さて、今回の話の着地点はどこか。「僕が日頃使う(書き)言葉がカタいこと」に理由があることを、少しだけ言っておきたかった。僕の使う言葉は理屈っぽ過ぎる。長いから面倒くさい。断言が多くてエラそう。そういう印象を受ける人が大半だろうと思う。ウェブで文章を読者に「読んでもらう」ための原則からも大きく逸脱している。じゃあ、なんで、そんな書き方しているのかというと、一つにはその書き方が好きだからだが、もう一つには、一応この文章の目標設定がある。普段話す言葉はこんなにカタくはない(つもりだが……)。文章を書くときの僕自身の意識として、情報と表現は違うというものがあり、ここで僕が受験生に伝えたいことは情報ではない。「受験に役立つ情報」をただ提供するだけなら、僕ももう少しわかりやすい書き方をする。シンプルにデータを読めるよう余計な表現はつけないし、受け入れてもらいやすいように語尾を柔らかくする。しかし、情報提供ではなく自分の考えを「表現」しようということになると、読者に自分の感じていることを「体験」して欲しいという意味合いが出てくる。そうなると、僕の考えを噛み砕いて情報として伝えるという選択肢はとれない。読んでいて、まわりくどく感じる部分があるなら、それはそこで回り道をして考えて欲しいという意図があるし、前提知識がないと読めない部分があるなら、知識があるか、なければ調べるくらいのモチベーションがないと読めませんという目印である。断言口調もエラそうに感じるかもしれないが、これも意図があって、「そうかもしれないし違うかもしれないそれはひとそれぞれだから判断は皆さんにお任せします」といった保身のためにどっちとも取れるような読みにくい上に結局何が言いたいのか意見が見えない「筆者不在の表現」という無駄を省いているだけだ。筆者不在の何も内容のない文章を読まされるほど無駄な時間はない。だから、文章はできるだけ責任をもって断言することを心がけている。自分で断言できないことを書くと、途中で意見がぶれてくるし、そもそも書くとなれば断言できるレベルになるまで勉強する。最後に、個人的な好みの問題として、文章として少しでも文字数を減らしコンパクトにできるという観点からも、断言口調が好きだ。念のために補足するが、断言できないことまで断言したいわけではなくて、書くなら曖昧さを残したくないというだけのことである。

つまるところ、僕の頭の中を忠実に再現するとこういう文章表現になるということであり、言い回しなどを変えてしまうと、僕の頭の中の再現にはならなくなる。そもそも、わかりやすい言葉遣いで文章を書く人は、頭の中もわかりやすい言葉で構成されているのだ。僕も、それを模して書くことは、労を厭わなければ問題なくできるし、普段話をするときはもっとふんわりした話をする。もしも、何かをわかりやすく解説することを仕事として依頼されたなら、その趣旨に従って、読者の歩調に合わせた文章を書く。全ては、誰を読者として想定し、何を目的とするかである。

最も大切なこと。文章には「目的」があり「読者」が存在する。文章の評価というのは、文章それ自体よりも、目的とのマッチングによって決まる。

受験において「小論文」を書くときも、きちんと「読者」を想定してその視線を感じながら「目的」に沿った文章を書かないといけない。ただ、受験においては個性的な表現をすることはプラスには働かないことが多いので、減点のリスクを避け、無難な文章を書く羽目になる。「小論文」で試されているのは表現力というより、構成力、つまり、「目的」を達成できているか、客観的、論理的に思考できているか、だけなので、さほど読者を意識する必要はないし、自分の頭の中を再現するという「表現」をする必要もない。必要な情報を構成して書き出すだけだ。プログラミングに近い。

僕がここにあげている文章も、「受験生」の目にさらされることを意識して書かれている。

結論。

「難しいことはきちんと難しく」”Think difficult!”

「当たり前」であることを塾の特色の一つにしているので、その「当たり前」はこれからもごまかさないでいたい。

「難しいことがとても簡単にできる」という嘘に惑わされず、「難しいことを難しいままちゃんとこなせる」ひとになって欲しい。