帰納演繹アブダクション

具体例をわかりやすいものに加筆修正(2016/06/09)

論理的思考で導かれた結論は全て正しいのか。

基本的に、論理というのは前提から出発しての言葉遊びみたいなもので、前提が崩れたら全て崩れる。だから、何が前提かはとても大切。

その上で、一応論理的に思考ができるということが大学入試ではある程度求められているので、「論理的思考って何?」ということを簡単に紹介したい。

用語としては、そもそも日本は論理などという概念とは馴染みが薄い土地柄なので、全て外来語となる。

deduction:演繹
induction:帰納
abduction:アブダクション

並べてみると、”abduction”の扱いのひどさがよくわかる。ちゃんと漢字で訳を当ててあげて!(強いて言うなら「仮説形成」という訳が当てはまる)

語源としては、
deduction:下へ導くこと
induction:導き入れること
abduction:離れたところに導くこと
といった感じだろうか。

分類をもう少し丁寧にすると
(1) deduction
(2-1) induction
(2-2) abduction
という具合になる。

帰納という言葉は「数学的帰納法」という謎の呪文で、受験生にもお馴染みであるが、はたしてちゃんと意味がわかっているだろうか。

帰納とは、個々の特殊な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見つけようとする方法論のことである。

(事例-原因)AさんもBさんもCさんも医学生だ。(事例-結果)AさんもBさんもCさんも勉強に追われている。 →(法則)医学生は勉強に追われている。

これが帰納である。帰納的に導かれた結論は、前提が真であっても、真である保証はない。帰納というのは、単なる推論に過ぎないから、当然だね。

そうすると、「数学的帰納法」で確実に真であることが示せるということは、実はこれは帰納とは名ばかりで演繹なんだ。帰納的というニュアンスはなんとなくわかるけどね。

演繹とは、一般的・普遍的な前提から、個別的な結論を得るための方法論のことである。

(法則)医学生は勉強に追われている。(事例-原因)Aさんは医学生だ。 →(事例-結果)Aさんは勉強に追われている。

これが演繹である。演繹的に導かれた結論が真かどうかは、前提に依存する。前提が真なら結論も必ず真だし、前提が偽なら、結論も必ず偽となる。

そう考えると、一般人の感覚からすると、帰納はとても論理的とは言えないと思うのではないだろうか。しかし、そこまで理解したうえで帰納するのであれば、それは論理的と言える。帰納による結論を正しいと信じてしまうことは論理的ではない。

では、アブダクションとは何か。アブダクションは広義には帰納に入れてもいいようなもので、だから、分類上は同列のものとして並べた。ちょっとだけ違うのは、語源で触れた「離れたところに」というニュアンスである。

アブダクションとは、個々の事象を最も適切に説明しうる仮説を導く、仮説形成のための方法論のことである。

(法則)医学生は勉強に追われている。(事例-結果)Aさんは勉強に追われている。 →(事例-原因)Aさんは医学生だ。

これがアブダクションということになる。

もう少し定義をわかりやすく言いかえると、目の前にある個々の事象を説明するための仮説をいきなり立ててしまう。しかも、論理的に事象から離れたように見えるものでも大胆に立ててしまう。そして、その仮説が正しいという前提を置いて、その仮説を立証するようなデータを集めてくる。集められないこともある。推論という意味では、帰納もアブダクションも同じだが、思考のベクトルが真逆だ。

さて、以上のことから、何がわかるか。繰り返し検証し、何度も実験データが取れるのであれば、疑似的に帰納と演繹を繰り返して、結論を得るという手続きを取れる。しかし、目の前の限られた事象のみから結論を得ようとすると、帰納も演繹もできない。ただ、仮説を立てることしかできない。仮説の検証もできない。そうすると、それははたして「科学」と言えるのだろうか。

例えば、いわゆる「進化論(進化学)」は科学なのだろうか。この辺の話はうやむやに済ませる人が多いが、たぶんとても簡単な話で、これは「科学とは何か」という定義の問題である。実証可能なもののみを科学と呼ぶのなら、進化論はただの推論・仮説に過ぎない。しかし、アブダクティブな論証によって吟味されることも科学的であると認めるなら、進化学は立派な科学の一派である。

生物の教科書に進化を載せるのであれば、そういう前提の話も少しは載せても良いのではないだろうか。アノマロカリスなんて名詞を覚えることに何の意味があるのかとは思う(覚えてしまっているが)。

別に、進化に関する説が合っているとか間違っているとかそういうことが言いたいのではない。進化について考えるときの、思考の在り方がやや特殊であることをもう少し教えても良いのではないかと感じるだけだ。

そして、高等教育を受けたのであれば、帰納的・演繹的な思考はできて当然とみなされるが、アブタクティブな思考についてはあまり訓練をする機会もなく、社会からその能力を問われることもない。でも、何かブレイクスルーを起こすためにはアブダクティブな思考は絶対に必要だ。それは、時に論理的整合性からはかけ離れたかのように見えた仮説を打ち立てたりもする。いまの大学入試はそういう思考を育てない。そういう意味で「知識人」は皆入試制度を批判する。

受験生諸君も、そうやって知識人に「受験バカ」と低く見られていることに奮起しよう。まず、帰納的・演繹的な思考をいまのうちにしっかり身に付けよう。そして、いつか、答えのない問いに挑む日が来たら、「全ての問いにはたった一つの答えがあった」という受験で学んだ知識を捨てよう。

でも、いまはまだ、「目の前の問いに対しては必ず答えが、しかもたった一つだけある」ということを忘れないで。答がたった一つだけしかないように設定されたパズルやクイズを解くとか、なんて簡単な作業!