教育改革

文部科学省が出している、高大接続システム改革会議「最終報告」によると、じきにセンター試験は廃止され、英語は外部の検定試験が利用できるようになり、AO入試、推薦入試などの区分が廃止され、各大学の個別試験は総じてAOや推薦入試のような多面的評価で為されるよう方向付けられるという。

そもそも、教育とは何なのだろうか。言葉の定義として、何を教育とするか。そのスタートラインを明確にしよう。

僕は「世の中の役に立つ有能かつ有益な人材を育成する」という意識を持って塾を運営している。塾に来る生徒も生徒を預けてくださる保護者様も、基本的に、志望校に合格することだけを強く望まれている。だから、僕もそれに応える最善の方法を模索して、提供している。もう一度繰り返すが、有能な人材を育成し、育成した人材を大学に売り込む、送り込むところまでが僕の仕事だ。おこがましくも、「教育」によって生徒の「頭を良く」してやろうなどとは全く思っていない。「立派な医師」を育成するのも僕というかそもそも塾のする仕事ではない。それは各大学が負うべき仕事である。負うべきというか、そこが大学の特色を決定づける根幹、要するに各大学の腕の見せ所であろう。

『人間は教育されなければならない唯一の被造物である。』とカントが言うように、人間は「教育」によって初めて人として完成される。

「教育とは、人が人として生きてゆくための価値観や行動様式の伝達である」というのが最も原始的な定義だろう。その意味では、初等教育は「教育」と言える。それは生きていく上で必要とされるものであるから。しかし、「教育」という言葉をその文脈で使えば、高等教育は「教育」には含まれないように思う。別に、そんなもの(高等教育で学ぶ知識)はわからなくても人は人たることが可能である。だから、僕はこれを教育とは認識していない。僕が塾で行おうとしていることは、「訓練」である。

話を厳密にするために、さらにややこしい部分まで踏み込むとすれば、そもそも”education”の訳語としての「教育」という言葉が、原語の持つ語源的な意味とあまり対応していない。「その人格が持つ能力を引き出す」というようなニュアンスを「教育」という言葉に感じることができない。「教育」という言葉から感じるのは、「人たらんとするために必要なことを教え育てる」という少しばかり一方的なニュアンスである。それが悪いと言っているのではなく、その言葉を全年代の「生徒」に対して使用することに少しばかりの違和感がある。”education”という言葉を使わず、日本語で表現するとしたら、実状から定義すると、小学生くらいまでは「発育」中学生は「教育」高校生は「教授訓練」大学生以降は「教授」とかで良いと思う。まあ、こんなものは僕がいま思いついて適当に書いている勝手な意見なので、正解を挙げたわけでは全くないが、とにかく、教育という言葉のせいで、自分達が訳語をあてたその言葉のイメージに縛られている気はする。

面倒かもしれないが、僕は「教育」という言葉を、初等教育くらいまでに限定した意味として使うのでご了承いただきたい。だから、僕は自分を「教育者」とは認識していない。

塾の運営を始めてまだそれほど経っていないが、いまのところ、唯一にして最大の問題点として感じていることは、そもそもまともに「教育」を受けて「人」たりえていない生徒が来た場合、塾において「教授訓練」だけでは対応できないことである。結局、「教育」の領域に片足を突っ込まざるを得ないこともしばしばであり、対応に余分なコストをかける羽目になる。教育改革を大いに論じて推進するのは結構なことだが、そもそもの「教育」をもっと確実に浸透させてほしい。

さて、そろそろ本題に入ろう。実際の改革の中身はどうだろうか。センター試験を廃止して、年に数回受けられる試験に変えるのは、これはとても良いことだと思う。第一段階の選抜を一発勝負にするのは評価をする側される側双方にとってデメリットが大きい。ただ、各大学の個別試験を、多面的な評価システムに統一してゆこうとすることには疑問しか感じない。評価を多様化すればいわゆる「落ちこぼれ」をより多く救い出せるのかというと、多分そういうことではないだろう。より多種多様な「落ちこぼれ」が発生するだけである。もしくは、多種多様な価値観をもってしても拾い上げられない生徒がいたとしたら、もう救う手立てがないということになってしまわないか。結果、顧客の期待に応えるべく、塾、予備校が多様性に対応するための一元化された基準を作り上げて、また本質的に偏差値主義とさして変わらない元サヤに収まってゆくのではないか。「多様化した入試制度に対応するために」という「マニュアル」ができあがって、結局皆「マニュアル通りに」勉強する。多様性という名のもとの一元化。そのへんがオチだろうか。

偏差値の下で育った人間が持つ直感は、そうなるであろうと言っている。根本的なマインドを変えないと、頭でっかちに考え出したスローガンじみたものを掲げても、ます成功しない。普通に考えたら、今の日本人のマインドでは「多面的な評価方法」などと言われても困惑するだけで、それに対応するための「わかりやすい一元的な基準」への需要が高まるだろう。できるだけリスクの少ない方法で確実に最低限の結果を出したい。そうではなく、リスクを恐れず多様な価値観に身をさらして堂々と勝負したいというマインドを持った若者が、一体どれほどいるだろうか。そして、若者よりも、何より、その親、保護者が、最大限のリスクの排除を求めるのではないだろうか。「ペーパーテストによる点数は最も公平な判断基準であり事故が少ない」という「高学歴者が持つ」信仰を本当になくすことはできるのか。

教育改革の諸々の案、それ自体は間違ったことでもないし、方向性として良いと思うが、全体的な環境、空気を変えられないと、大した改革にはならないだろう。むしろ改悪になる可能性も高い。結局どこを変えねばならないか、である。中学生、高校生が学ぶのはひとまずは高校、そして大学に進学するためだが、最終的には、何らかのプロフェッショナルになり生きてゆくためである。それは、一つには企業に就職するということであり、一つには自分のスキルで身を立てるということである。企業が就職希望者をどう判断するか、身につけたスキルで身を立てる、あるいは目新しいことを始める、そういう若者を社会がどう判断するか。変えるべき、というか変わるべきはそこだろう。

「高大接続」という意識がおかしいのではないか。学生諸君は大学へ行くことを最終目標として勉強に励んでいるわけではない。より良く生きるためだ。「職業との接続」をもっと意識して、もっと生徒の将来や人生のことを考えた改革をしてあげて欲しい。教育とはどうあるべきかという「オトナ」の理想論で生徒を振り回してはいけない。

良い教育を受けることではなく、良い職業に就くことが、生徒に与えられるべきことだ。それは、名ばかりの良い大学を出て良い会社に入るというかつての過ちを意味していない。実質として良い職業に就くことができる教育、それが良い教育だ。職業への接続という出口だけコントロールすることができれば、そこへ至るプロセスは、自然選択的に変わってゆくだろう。

いま、理念だけで、突然改革だと言われても、たぶん誰もピンとこない。

しつこいかもしれないが、最後にもう一度だけ確認したい。「多面的・総合的に受検者を評価する」のに使う予定の資料は

・ 「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の結果
・ 自らの考えに基づき論を立てて記述させる評価方法
・ 調査書
・ 活動報告書
・ 各種大会や顕彰等の記録、資格・検定試験の結果
・ 推薦書等
・ エッセイ
・ 大学入学希望理由書、学修計画書
・ 面接、ディベート、集団討論、プレゼンテーション
・ その他

とされている。これだけのことを取り繕わねばならない。息苦しさを感じないだろうか。この評価を取り繕うためにマニュアルが作成され、この評価を満たすためのマニュアルに従った高校生活を送った人間が良い評価を得ることとなる。

本当の意味でのゆとり教育(良い意味では使っていない)が始まろうとしているということはないだろうか。

高校で学ぶことは、教育というより職業訓練に近いものだと感じる僕は間違っているだろうか。

職業訓練を評価するとしたら、その到達点(結果)だけであるはずで、プロセスを評価基準に入れてしまうということは、プロセスを飛ばして結果を出してしまう生徒のモチベーションを下げることにつながらないだろうか。先生からの評価ばかりを気にする高校生活を送ることにならないだろうか。

こんなことをするよりも、語学教育過程を見直したり、実用レベルのプログラミング技術の習得を義務化したり、直接国益につながる改革はいくらでもあると思う。

とにかく、ピュアな学力、能力を持った生徒が、機会を奪われるような制度にだけはならないことを祈る。